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榊󠄀山裕子の仕事より

 

書評

BOOK REVIEW
マリオ・A 『ma poupée japonaise』(論創社)
文・榊󠄀山裕子

『DOLL FORUM JAPAN』第31号                   
 DOLL FORUM JAPAN事務局 2001年12月 
 

あなたも日本人の女性って、人形のようだと思いません?
リビドーはPC(ポリティカル・コレクトネス)とは別にある

 

   「あなたも日本人の女性って、人形のようだと思いません?」
 この挑発的な疑問形で始まる写真集、イタリア系ドイツ人マリオ・Aの『ma poupée japonaise」の出版。そして出版と同時期にミヅマアートギャラリーで開催された展覧会は、大いに評判を呼んだ。少女のような日本女性の球体関節人形化。これはベルメールの少女人形に始まるとされる球体関節人形の系譜にピタリとはまる。この写真集は、石畳の上に置かれた大きなスーツケースの映像から始まる。これはハンス・ベルメールが、旅行カバンに人形を詰め込んでドイツからフランスに国境を移動した亡命者であったことから「スーツケースの男」と呼ばれていたというエピソードを前提としている。このベルリンの地で手に入れた「人形」と共に、舞台は日本へと移動する。ちょうどマリオ自身が日本にやってきたように、同じ経路を辿って。この人形の役を演じるのが、原サチコ。劇団「ロマンチカ」で活躍した女優である。未成年者のようにも見える彼女とのコラボレーションがこの創作を可能にした。彼女は日本女性=人形として「球体関節人形」を演じる。それはよくできた神話だ。しかし日本的なあまりに日本的な。

 何故それは日本的な神話なのか。それはベルメールを祖とする創作人形としての「球体関節人形」が日本独特のものであるからだ。日本ではベルメールというと一種怪しくエロティックな人形のイメージが絡み付いているが、海外におけるベルメールの近年の再評価は、日本における評価とはかなり異なる文脈のなかにある。そこではベルメールのセクシュアリティは、審美的というよりはむしろ政治的な文脈の中で語られる。それがフェミニズムによる批判を経ていることは、一見それと見えない場合でも近年の再評価を正確に理解する上で重要である。それはマリオの作品においても同様である。ベルリンで大学時代を過ごしたマリオはフェミニズムの強烈な洗礼の申し子であった。マリオ自身の言によれば、彼はフェミニズムを頭で学んだのではなく、まさに青春時代「フェミニズムを生きていた」。1980年から83年にかけて、彼はレズビアン・フェミニズムと呼ばれる先鋭的な思想と共にあったが、それは当時の恋人がレズビアン・フェミニストであったという経験と直接結びついている。彼のパートナーはバイセクシュアルで、彼によれば「私が彼女を選んだのではなく、彼女が私を選んだ」。また彼女には同じレズビアンのパートナーがおり、彼はその複雑な三角関係の中にあった。彼は当時、男性的な性の欲望をストレートに発揮することが出来ない環境に置かれていた。もちろん彼は決して単にやむなくその環境に置かれていたというわけではなかったし、その後もレズビアンやバイセクシュアル、あるいはアンドロギュヌスを感じさせる女性たちとは不思議とフィーリングが合い、交友があるという。

 自らをマッチョ的ではなくむしろアンドロギュヌス的と語る彼はそれゆえ、『ma poupée japonaise』のような作品にストレートに到達したわけではない。迂回路と、彼自身の欲望が静かに熟していくことを可能にする生暖かい揺籃が必要であった。迂回路は、彼の前作『F THE GEISHA』(河出書房新社)である。それは『ma poupée japonaise』の表現、その女性観とはまさに対極にある。彼の言によればそれは「コンセプチュアル・アート」である。そのコンセプトは、西洋人のオリエンタリズムに対する端的な批判だ。『F THE GEISHA』には、ドイツ在住の作家多和田葉子が「オリエンタリズムの目で見れば、日本女性など全部ゲイシャである」という強烈なメッセージを寄せているが、これは「あなたも日本人の女性って、人形のようだと思いません?」というマリオのメッセージと鏡像的な関係にある。この作品は徹底して西洋人のオリエンタリズムに対する批判から成り立っている。オリエンタリズムを露骨に表わすゲイシャ印の缶詰を持つ日本人女性は、この缶詰で、自らの姿が映る鏡を叩き割る。いわば西洋にとっての日本の女=ゲイシャというステロタイプを叩き割る。足を開き、陰毛と性器をさらけ出し、すがすがしいまでに挑発的な眼差しでこちらを見据える日本の女ナオミは、西洋人の男が好む従順な日本的なあのゲイシャではない。一方この挑むようなセクシュアリティの対極にあるのが、ma poupée japonaise(私の日本の人形)としての原サチコである。男の意のままになる東洋の GEISHA GIRL ならぬ jeune fille (少女)としての poupée (人形)としての日本の女。これはコンセプチュアルな営みではなく、マリオ自身のセクシュアリティへの回帰として作られている。確かにF THE GEISHA のように自らの西洋中心主義と男根中心主義を批判することはできるだろう。しかし彼自身の「欲望」はそこにはない。彼の欲望はその裏面にひっそりと張り付いている。彼の言によれば「リビドーはPC(ポリティカル・コレクトネス)とは別にある」。「欲望」は「政治的正当性」などとは関わりなくそこにある。作家はそこに回帰しなければならない。そのための生暖かい揺籃、それを準備したのは今彼が住む「日本」という環境である。

 彼は今回の作品を自分の「弱さ」を表現した作品であると語る。自分の望みは彼女を壊すこと、暴力的に彼女と接し、愛し尽くし、しかし愛する故にこそ最後には壊してしまいたいという衝動へといたる、そこまでの愛の道行きを描き尽くすことだ。彼はそれを貪欲に二つの方向で試みる。一つは心理的な飽和点としてのヒステリーの表情。実際に、撮影に向けて、彼女との間で半ば意図的に作り出され、交わされていく心理的葛藤が、女の感情をこの表情へと発酵させていく。これは人間の人形化ではない。この表情を求めるマリオの欲望は、明らかに「人形愛」のそれとは異なる。それは、鉱物的な、静かな、死んだものへの愛好、見返さないもの、標本的なものを安心して所有するという欲望ではない。最後に彼女を死に至らしめ、水中に沈める場面においてもそれは同様である。ここでの死は、コレクター的な趣向の静物的なメタファーではない。演じる女にとっては性的なエクスタシーとしての死、男にとっては愛の果てにむさぼり尽くし、殺し尽くす最後の瞬間のメタファーである。彼が撮りつづけていたのは、あくまでも生身の女であり、人形ではない。あえて言うならば、そこにあるのは男の欲望の形に沿って自らの欲望をそこに棲まわせようとする女の欲望と、そのように女の欲望を方向付け、鞣していくことに悦びを覚える男の女への欲望の象徴としての「人形化」であろう。球体関節を装うゴムの輪も、美学的、視覚的に捉えるよりもむしろ、その喰い込みが彼女の生身の身体に与える性感として捉えるべきであろう。

 彼が、かくも自分の「欲望」に忠実に、それをストレートに発露する作品を実現できたのは、日本という場所なればこそであった。それは日本がオリエントの地であるから、という場所の神話によるものではなく、現実にこの地の人々の心性が、彼にとって真に居心地の良い創作の環境を準備してくれたからである。思えばここでは人々は、かくも異質な欲望の回路の中に生息し続けているのだ。21世紀初頭の現在においてもまだ。
 

 (写真集発行を記念した「マリオ・A展 ma poupée japonaise」は2001年7月25日から1ヶ月間、東京青山のミヅマアートギャラリーで開催された。)